語り-記事【法則編】

カルマの法則

- Article(2005/05) -

天国や地獄と言った死後の世界はどう言った所だろう。色んな宗派によって表現は違うのだが、本当に天国や地獄と言った世界はあるのだろうか?
私自身は天国も地獄も結論から言って有ると言えば有るし無いと言えば無いと考えている。・・・・。
って、答えになっとらん!と思わず突っ込みを入れたくなったアナタ。まぁまぁ、ちょっと待ってほしい。そう考えてる根拠として、まず語りたいのがこの「カルマ」なのだ。

私は無宗教で、神に対する信仰心はあっても宗教に対する信仰心はない。 しかしこの「カルマ」は確かに無宗教の私にとっても実感の有る法則だ。大げさに言えば、この法則を深く知る事によって、運命はもちろん天国や地獄と言った死後の世界、宇宙の原理そのものも解き明かせるのではないかとさえ感じてしまう。後に死後の世界についても少し語るつもりではいるが、まずは、この「カルマ」とは何かについて語ろうと思う。それによって、天国も地獄も結論から言って有ると言えば有るし無いと言えば無いと言った根拠も理解してもらえる事だろう。

● カルマとは

カルマの法則とは「自分の成した行為は必ず自分に返る」と言う法則だ。「因果応報」「業」などとも言う。
カルマは大きく善業(アカルマ)と悪業(ヴィカルマ)の二種類に分けることが出来る。善業は「あらゆる生命の発展」に繋がる行為であり、今世で善業を積んでおけば来世で幸せになる。悪業は「あらゆる生命の破滅」に繋がる行為であり、悪業を積むと来世で不幸になると言われている。ようはイイ事をすればイイ事が起きるし悪い事をすれば罰が当たりますよと言ってる訳だ。また今世の幸、不幸も前世の行いの良し悪しですでに決まっていると言う・・簡単に言えばそう言う法則なのだ。

‥と、簡単に言われても、自分がどう言ったカルマを持っているのか、前世でどんな行いをしていたのかなんて、簡単に知ることは出来ないしピンとは来ない。しかし霊能者や占い師、催眠療法などの催眠術師といった人達が、クライアントとしての色んな人の前世を見て思う事は、やはり「自分で蒔いた種は、自分で刈取らなければならない」と言う事だそうだ。誰かを傷つけたら、同様に傷つけられるまでカルマは消えない。
傷つけたと言う「原因」から、そのカルマを消化する為の「縁」が生じ、傷つけられると言う「結果」を招き、初めてカルマは消化される。

そう考えると、よく占い師や霊能者によって「明日どこそこに行くと怪我をするからやめなさい」なんて止められたとしても、これは結局カルマの返りを引き伸ばしてるだけに過ぎないのかもしれない。「縁」を変えて「結果」を避けたとしても「原因」が消化されない限り何度でも「縁」が生じて「結果」を招くわけだから。

さて、仏教ではカルマを「身業」「語業」「意業」の3種に分けても説明されている。これを「三業」と言う。ここで善業、悪業と合わせて区分すると以下のようになる。

・身業(しんごう)
身体的活動による業。殺生や暴力、盗みなどは「身業の悪業」、救助や看病などは「身業の善業」になる。
・語業(ごごう)
言葉による業。罵倒、陰口、嘘などは「語業の悪業」、褒めたり励ましたりは「語業の善業」になる。
・意業(いごう)
心(感情など)による業。嫉妬や嫌悪は「意業の悪業」、同情や思いやりは「意業の善業」になる。

以下にそれぞれを詳しく説明していこうと思う。


● 身業

カルマ1例えばピカチウがドライモンを殴ったとする。この場合ピカチウは「殴った」と言う「身業の悪業」を背負った事になる。この悪業は基本的にピカチウが誰かに殴られない限り消えない。これが来世で誰かに殴られたとしたら、その時ピカチウの「殴った」と言う悪業は消えるわけだ。

では最初に殴られたドライモンは何で殴られたのだろう。これはドライモンもまた前世で誰かを「殴った」と言う悪業を持っていた事になるのだ。そして今、ピカチウに殴られる事で、その悪業を消化したと言えるワケだ。

ただ、ピカチウがドライモンを殴ったのは「身業の悪業」になるが、同時にドライモンに対して嫌悪して殴ったワケだから「意業の悪業」も積んでいる事にもなる。
と言う事は、来世では「嫌悪」を持って「殴られる」…あるいは「嫌悪」されるのと「怪我」をすると言う形で別々に返ってくる事も考えられる。

そう言う意味では、「身業」や「語業」は「意業」をベースにしている事がほとんどだから「意業」が最も重要ともいえる。悪意を持って傷つけるのと、不注意で傷つけてしまうのとではカルマの返りも全く違ってくる。
ちなみにカルマは必ず転生をまたがるものとは限らない。今世の中で返ってくる場合も多々ある。カルマを消化する為の必要な縁が揃った時に返ってくるのだ。


● 語業

カルマ2 「人の悪口」は一番身近で犯しやすい「語業の悪業」なのではないだろうか?悪意が無くてもついつい言ってしまう事があるだろう。それでも悪業として返って来るものなのだろうか?

ピカチウがドライモンに向かって「ドライモンさんは太ってるチュー」と言ったとする。これを聞いたドライモンは結構傷ついてしまったとする。これをカルマで言うとピカチウは「語業の悪業」を背負ったわけだから、軽い気持ちで言ったとしても(「意業の悪業」は小さかったとしても)、いずれ誰かにそれ相応の悪口を言われる事になる。
今生のうちに言われるかもしれないし、あるいは来世ですごく太ったデカピカチウに転生して誰かに「太ってるね」と言われて、ピカチウもまた大きく傷つくのかもしれない。それが軽い気持ち(「意業の悪業」は小さめ)で言われたものであったとしてもだ。

ところで、何故わざわざピカチウはドライモンに向かって「太ってるチュー」なんて言いたくなったのでだろう。
それはピカチウ自身、同様の何かしら欠点を潜在的に自覚しており、それを認めたくないから他人の欠点を見つけて、自分を誤魔化そうとしているのだ。
つまり「自分も太ってるよな」と言う自覚が潜在意識にあり、それを表層意識では認めたくないから、太ってるドライモンを見つけて「ドライモンさんは太ってるチュー」と言葉にする事によって自分はそれほど太ってないと自分に言い聞かせたかっただけなのだ。
そんなピカチウも実際は太ってるわけだから、カルマに関係なく、後に誰かに「太ってる」って言われたとしても別に何も不思議ではない。

そう考えるとあらゆる「悪口」は言ってるその人自身の中にもある要素と言う見方が出来る。
横着な人ほど横着な人が気になるものだ。浮気願望のある人ほど恋人の浮気をすぐ疑うものなのだ。人の悪口を言いたくなった時は、それが自分の事を言ってるのではないかよくよく考えてから言おう。

また「悪口」が「その人自身の中にもある要素」として捉えずとも、悪口ばかり言ってる人が、周りに非難されるようになるのも想像に優しい。
逆に「褒めの言葉」や「励ましの言葉」と言った「語業の善業」はどうだろう。利他的な気持ち(意業の善業)を持ちつつ、人に対して優しい言葉をかける事のできる人はそれなりに素晴らしい人格の持ち主だ。当然まわりの人に褒められたり、苦しんでる時に励ましてもらえたりするのは、これもカルマで捉えなくても理解しやすい事だろう。


● 意業

カルマ3 では、こんな事はないだろうか?転校や転職しても必ず一人やる事成す事が気に入らない人物がいる。何処へ行ってもやる事成す事が気に入らない人物が必ず一人出来てしまう。そのやる事成す事が気に入らない人物が転校や転職をしていなくなっても、今度は他の今まで気になってなかった人物の一人がまたやる事成す事が気に入らない人物になってしまう。別に嫌な人でも悪い人でもないのに何故かやる事成す事が気に入らない。嫌悪してしまう。

「嫌悪」は「意業の悪業」になるが、別に好き好んで「嫌悪」する人はいないだろう。実は「嫌悪」も先ほどの「その人自身の中にもある要素」として捉える事が出来るのだ。
自分の中で感じ取ってる改善すべき部分をその人の中に見つけてしまうから好きになれない、気になってしまう訳だ。

極端な例で言えば、例えばせっかく禁酒してるのに、身近な人が美味しそうに酒を飲んでたら気にならないだろうか?腹立たしく思わないだろうか。でも、それは自分も飲みたいから気になるのであって、もう酒に興味がなくなるぐらいまでになったら身近な人が飲んでても気にならなくなるのだ。
人の悪い癖や卑しい部分など、気になってしまうのは自分の中にもまた似た要素があるからと言える。逆に言えば自分自身が本当の意味で変わってしまえば気にならなくなるわけだ。

転校や転職しても嫌悪の対象が必ず現れると言うのは、「原因」を「消化」するまでカルマによって何度でも「縁」が生じていると言う見方も出来るわけだ。


● カルマの縁

先ほどお話した自分の中の改善すべき要素を他人の中に見ると気になると言う現象、これはお互いに同じ様に感じてるケースも結構あるはず。この場合同じ部分をお互いに持ち合わせているわけだから、言い方を変えれば互いに縁があると言えるだろう。そしてどちらかが変らない限りこの縁はなかなか切れない。

例えば最初のピカチウがドライモンを殴った話でいうと、この場合ピカチウは「殴った」と言うカルマを背負った事になるのだが、ドライモンもまた「殴った」と言うカルマを過去世に背負っていた事になる。結局二人とも「殴った」と言うカルマを持っているわけだ。同じカルマを持っているとなるとカルマに関わる性格の部分も似ているはずだから、先ほどの「嫌悪」の例え話と同様、お互い気になって仕方ないのかもしれない。
もしかすると来世ではドライモンがピカチウを殴るのかもしれない。お互いに「殴った」と言う「悪業」を消してしまいたくて「殴られる為に」何度も出会うのかもしれない。
つまりピカチウとドライモンは「殴る」と言うカルマの「縁」を持ち合わせている二人といえるのだ。
ここではちょっと悪い例での縁をあげたが、消化すべきカルマ(自分の改善すべき要素、あるいは必要とする要素)を持ち合わせている者同士が惹かれあって縁は生まれる・・と言えるだろう。逆にもし消化すべきカルマを消化できたら縁は切れていくとも言えるはずである。

カルマ4 消化すべきカルマの近いもの同士で縁が生まれるとすると、家族や学校、会社などの縁は比較的カルマの近い者同士の集まりと言えるのかもしれない。
ここで私の場合で言えば友達の何人かが、確かに幕末の時一緒だった人が集まってるグループ、平安時代一緒だったグループ、チベットで一緒だったグループと別れてるのがよくわかる。

類は友を呼ぶとも言うし、どこへ転職してもやっぱり似た状況になって転職したいって思うようになるようだったら、それは消化すべきカルマが付きまとってると言えるだろう。それがどう言うカルマなのか理解して消化できたら自分自身を変えれたら、自然と転職する理由も消えるハズ。あるいは自然と次の消化すべきカルマの縁の場所に転職するチャンスが向こうから来るのかも知れない。

「カルマ」は仏教用語ではあるが、仏教においては、この世は無限のカルマが絡み合って影響しあって成立ってる世界とも言われている。無数の過去世から未来世へと絡み合ったカルマが続く。何度も何度も繰り返し生まれ変わる私達の運命が全てこのカルマによって支配されていると言うのだ。
「輪廻」とはまさにこのカルマの渦の中をぐるぐる回り続ける状態なのだ。これらのカルマを断ち切るために修行者は修行し、悟りをひらくのだ。解脱とは、このカルマの渦から抜け出る事なのだ。

では、そもそも何故カルマと言うものがあるのか。何の為に生じるのか。 続いてカルマの原理そのものについて語ろうと思う。


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